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宇陀市の歴史
縄文時代以降、各所で多くの人々が生活を行い、現在に至っています。また、宇陀地方は、『古事記』、『日本書紀』をはじめとする多くの文献にも度々登場し、今に伝える地名、伝承なども多くあります。
縄文時代
これまでに市内からは、有茎尖頭器(ゆうけいせんとうき)という石器が出土しています。これらの石器から宇陀の歴史の初源は旧石器時代・縄文時代草創期に求めることができ、縄文時代早期へと継続していきます。
縄文時代の遺跡の多くは、宇陀川流域、芳野川流域、内牧川流域の川岸段丘上、尾根上などにあり、早期~前期、中期末~後期、晩期の各時期の遺跡が確認されています。
弥生時代
前期の遺跡は、あまり多くありませんが、中期となると遺跡数は増え、後期ともなると遺跡数はさらに増えます。宇陀川・芳野川流域の小支流域とその谷部周辺、低丘陵上に多くの遺跡がありますが、地理的な制約のためか奈良盆地で見られるような大規模集落は、形成されていません。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』和銅6年(713年)秋7月の条に大形の銅鐸の出土が記録されています。日本最初の銅鐸出土の記録ですが、現在はその詳しい出土地は不明です。
古墳時代
弥生時代後期から引き続いて集落が営まれ、小支流沿いに数棟の住居が散在した状態で見つかっています。周辺には、方形台状墓や古墳などが造られている集落もあります。
東海・近江・山陰系の土器が比較的多く含まれ、朱を入れた土器、石臼、石杵等も出土している集落も見つかっています。宇陀地域の水銀生産等に関わっていた集団の集落だったのでしょう。
この頃の墓制として丘陵上には、いわゆる方形台状墓が出現してきます。弥生時代の終末に始まり5世紀初頭頃まで築かれました。キトラ遺跡の方形台状墓は、奈良県内において最初に確認されたものとして知られています。見田・大沢古墳群(国史跡)は、発生期の古墳として注目されています。
前期古墳はわずかですが、中期・後期の古墳は、宇陀川、芳野川流域を中心に各所に築造されており、その多くが古墳群を形成しています。短甲や多くの武器類が出土した中期古墳は、大和政権の影響が考えられます。6世紀後半には、横穴式石室を用いた古墳の築造が始まります。谷脇古墳(県史跡)は、そのさきがけとなった古墳のひとつです。これまでに市内には約30基の前方後円墳・前方後方墳が確認されており、奈良県内における小地域では、その数は多いといえます。
7世紀代の古墳は、家族墓的な性格から個人墓的なものへと変化していきます。小型横穴式石室、横口式石槨、磚積(せんづみ)石室などがそれです。横口式石槨や磚積石室の被葬者は、中央官人や渡来系氏族とも考えられています。
飛鳥・奈良・平安時代
『日本書紀』推古19年(611年)5月条に「菟田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。」といった記載があります。これは、史料で確認できるわが国最初の薬猟の記録でもあります。宇陀の野、「阿騎野」を中心に男性は薬効の大きい鹿の角をとり、女性は薬草を摘んだのでしょう。この地には、飛鳥時代から王権の猟場が設けられ、平安時代、9世紀後半まで禁野とされていました。
さらに、『日本書紀』天武元年(672)の壬申の乱関連の記載、天武9年(680年)の天武天皇の行幸、『万葉集』巻一で柿本人麻呂の歌に詠まれた軽皇子の遊猟(ゆうりょう)(持統6年(692年)などでは、「菟田吾城(うだのあき)」や「安騎(あき)の大野」として登場します。壬申の乱で活躍した武人のひとり、文祢麻呂の墳墓(国史跡)、中之庄遺跡では「阿騎野」の中心施設の一部が確認されています。
古代寺院跡では、駒帰廃寺(県史跡)、小附廃寺などがあります。また、『日本霊異記(りょういき)』には「真木原山寺(まきはらのやまでら)」の記載があります。飛鳥時代~奈良時代にかけて造られた飯降薬師の磨崖仏(まがいぶつ)(市史跡)は、特殊な仏教遺跡ともいえるでしょう。
室生寺は、天武天皇9年(680年)、役小角(えんのおづぬ)の草創、空海の中興(ちゅうこう)という伝承もありますが、記録で確認できる限りでは、奈良時代末期の草創と考えられています。これ以降、伽藍を整備し、現在に至っています。
中世
興福寺の支配下にあった大和国には、興福寺領の荘園が存在し、宇陀もその例外ではありませんでした。こうした荘園の現地管理を担う荘官(しょうかん)として成長を遂げ、後に伊勢国司北畠氏から「和州(わしゅう)宇陀三人衆」と称され、宇陀を代表する国人領主となったのが、秋山・澤・芳野の各氏です。彼らは秋山城、澤城、芳野城をそれぞれの居城としてこの地を治めていました。
14世紀後半、伊勢国司北畠氏の勢力が徐々に宇陀にも及んだ際、「宇陀三人衆」らは北畠氏に協力し、その支配下に入りました。
永禄2年(1559年)の松永久秀の大和侵攻では、翌永禄3年(1560年)、澤城に松永久秀配下の高山飛騨守図書(たかやまひだのかみずしょ)が入部します。幼少の高山右近も澤城で過ごし、この城内で洗礼を受けました。松永氏滅亡後は、「宇陀三人衆」は元の地へ戻ってきますが、天正4年(1576年)に北畠氏が滅亡した後は、豊臣家配下の蒲生氏郷(がもううじさと)の与力衆(よりきしゅう)となりました。
近世
天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山城入部に伴い、宇陀郡へは豊臣秀吉の家臣である伊藤義之が入ってきます。秋山城を居城とし、以後、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種ら秀吉・秀長配下の大名が宇陀を知行することとなります。
関ヶ原の戦いの後は、福島孝治が当地に入ってきます。この時、秋山城には大規模な改修が加えられ、宇陀松山城となり、城下町(宇陀松山城下町)の整備も進みました。しかし、元和(げんな)元年(1615年)に福島孝治が改易されたことにより、松山城は破却となりました。この時、城割役を担ったのが小堀遠州と中坊左近秀政でした。
福島孝治の改易後、宇陀郡は織田信雄が治めることとなりました。織田家宇陀松山藩は、4代(初代信雄、2代高長、3代長頼、4代信武)にわたって藩政を行い、宇陀郡の政治・経済の中心として賑わいを極めました。織田家が元禄8年(1695年)に丹波国柏原に移封された後は、幕府領となり明治を迎えます。
この松山は、近世城下における商家町から在郷町として発展し、近世から昭和前期までに建てられた意匠的に優れた町屋をはじめ土蔵や寺社などの建築群、石垣や水路などが一体となって歴史的風致を今日によく伝えていることから、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。