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宇陀松山城跡
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宇陀松山城(秋山城)とその後
秋山城は、宇陀郡を代表する国人である秋山氏の本城として築かれ、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたと思われます。
中世から近世にかけての城跡です。中世に秋山氏が秋山城を築きますが、天正13年(1585)に豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が大和郡山に入部により豊臣家配下の大名が城主となり、城は大規模に改修され、城下町も整備されました。
慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」後、豊臣家配下の大名に代わって福島高晴(たかはる・福島正則の弟)が城主となりました。福島高晴は、城を「松山城」と改名、さらに城の改修と城下町の整備を進めました。しかし、元和(げんな)元年(1615)に福島高晴が改易(かいえき)となり、城は破却(はきゃく・壊すこと)されてしまいました。この城を破却する役目は、小堀政一(こぼりまさかず/小堀遠州えんしゅう)らが担いました。
奈良県内では、宇陀松山城のほか、大和郡山城と高取城の三城体制で豊臣政権が大和国を支配していたことがわかり、宇陀松山城の重要性が再認識されるようになりました。平成18年には、国の史跡としての指定を受け、保存整備事業を進めています。
福島孝治の改易後、宇陀郡は織田信雄(信長の次男)・高長・長頼・信武の4代が80年にわたり織田宇陀松山藩として栄えました。当初、藩政の中心は長山丘陵付近に構えた長山屋敷でしたが、その後、寛文11年(1671年)に春日神社西側に向屋敷、貞享2年(1685年)に春日神社北側に上屋敷がそれぞれ造営され藩政の中心は移りました。織田家が元禄8年(1695年)に丹波国柏原に移封された後は、幕府領となりました。
松山町は、城の破却後も江戸期を通じ地域経済の中心として繁栄し、宇陀紙や吉野葛といった周辺地域の特産物を販売するとともに、活発な経済活動を示す町家が数多く建てられ、「松山千軒」・「宇陀千軒」とも称されました。松山町は、近世城下における商家町から在郷町として発展し、近世から昭和前期までに建てられた意匠的に優れた町屋をはじめ土蔵や寺社などの建築群、石垣や水路などが一体となって歴史的風致を今日によく伝えていることから、国の重要伝統的建造物群の選定を受け、保存事業を進めています。
宇陀松山城は、発掘調査によって本丸等の主な郭群を総石垣で、礎石建物群には大量の瓦が使用され、織豊系城郭の特徴を極めて良好に残すことが明らかとなっています。