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宇陀松山城跡の『抜け穴伝説』を探れ!
標高約470mの山頂にある、国指定史跡「宇陀松山城跡(うだまつやまじょうあと)」。豊臣政権下では、大和郡山城、高取城とともに、大和国支配の要でもありました。地形を活かした典型的な山城であったこの城に、「抜け穴があったのではないか」との伝説があります。数々の謎を秘めた宇陀松山城跡。早速、登城してみましょう!
宇陀松山城のルーツは、14世紀半ばの南北朝時代にさかのぼります。城を築いたのは宇陀三将の一人である秋山氏。当初は「秋山城」とよばれていました。豊臣家から徳川家の時代に入り、福島高晴が入城。城下町が整備され、「松山城」と名を変えました。その後、城は破却されましたが、今も石垣が残り、往年の時を刻んでいます。
宇陀松山城跡を目指してスタート!
宇陀松山城跡へは、春日神社から登る「春日神社ルート」と、まちかどラボの裏手から登る「赤砂利ルート」の、2つがあります。今回は春日神社からのルートで参りましょう。
登城まで必ず見ておきたい2つの門があります。一つ目が「国史跡 松山西口関門(黒門)」です。城下町ができた時期から残る唯一の建築物で、守りの要となっていた門です。往時を感じさせる風格あるたたずまいで気分が盛り上がります。
1つ目の門
松山西口関門は、城下町ができたときのまま現存しており、1931年に国史跡の指定を受けています。城の西門にあたる場所に位置し、川に面して建てられ黒門とも呼ばれています。
門を抜けて、大手筋を進むと、正面に石垣が見えてきました。ここが2つ目の門「春日門跡」です。高さは6メートルくらいでしょうか…立派な石垣です。
2つ目の門
春日門跡は、町人地と一段高い武家屋敷地を分ける虎口(こぐち)。城郭と武家地に対する大手門にあたります。現在は、東西に二つの石垣積の櫓台が残っています。
抜け穴を発見!?
春日神社に到着しました。遠くからでも、社殿の朱色が美しく見えます。
境内には、「城内に通じる抜け穴があったのではないか」といわれる場所があります。早速探してみましょう。
手水舎の背後に回ってみると…ありました!
人工的に作られたこの穴は、現在は埋められていて奥には行けません。でも、昔から「宇陀松山城の天守郭から続く穴で、城主が有時の際に利用する抜け穴である」と言い伝えられています。
残念ながら文献などの記録は残っていないため、本当に抜け穴だったか真偽は不明。城の抜け穴伝説は日本各地にあるように、歴史ある山城として築城され、城主が何度も変わった宇陀松山城だけに、抜け穴伝説があっても不思議ではありません。
いざ出陣!本丸へ!
さぁ、いよいよ宇陀松山城・本丸を目指します!
山道は一本道。整備されているので歩きやすいです。
ここは、命をかけた武士が行き交った道。登城していると、まるで城を攻める武士の一人になったかのような気持ちになります。
ついに到着しました!
頂上からは素晴らしい眺め!2011年には、「大峰山脈が眺望できる宇陀松山城跡」として、奈良県景観資産に登録されました。
今は石垣が残るのみですが、本丸や天守郭などの中心部は石垣造りの巨大な山城だったことが分かります。
石をのみで削った痕跡が残る石 | 石垣のあいだに収められた間詰石 |
これほど眺めが良いならば、当時は領内の主要な街道が一望できたことでしょう。城下町、街道と東西南北を見渡せ、交通を把握できる立地条件が宇陀松山城にはあるのです。
秋山氏や豊臣・徳川家がなぜこの場所を選んだのか…美しい眺望の裏にある古人の英知。宇陀松山城跡は、現代に通じる多くのロマンと、知的な創造力を養う面白さを教えてくれます。